短歌

歌集『砂の降る教室』を読みはじめる。通勤電車でも すこしずつ読もうと思う。
ぼくは、ただ、短くて読みやすい文章として読んでいるだけなのだけど。
短歌の作り手をとらえるこれは何か。
ちょっと、こちらが気恥ずかしいくらいだ。
でも、なんかいいなあ。

目に映る世界の物語すべてを、短歌に造りかえていきたい。
石川美南「砂の降る教室」(あとがき)

ぼくは彼のいたあの日から16年経ってやっと自分にとっての楽器を見つけたような気がする。笑わないで欲しい。短歌だ。
しんくわ(歌葉新人賞・受賞のことば)

自分は本当に短歌が好きになってしまったのかもしれないと思った。

http://d.hatena.ne.jp/mars_plant/20090818/1250608687

オカメザクラ

ぼくがなまえに執着するのは、きっと、ぼくが「自分一人でものを考える」ということを、両親がぼくにつけたぼくの名について考えることから始めたからだろうと思う。

木の名前が具体的に思い浮かばなくても、日常生活に支障はありません。現代の生活には、具体的な木の名前がとくに必要とされていないからです。昔の人たちは、木の製品にあふれた生活をしていました。生活の中で木の製品を使っていたときには、木の具体的な名前は必要でした。必要だから名前がついたのです。
石井誠治『樹木ハカセになろう』

この引用部分の後には、まず役に立つ木に名前がつけられたこと、木材として利用しない木はすべて雑木と呼ばれたこと、役に立たない木には蔑称が付けられたこと(有用なツゲに似ているが木材としては使いにくい木をイヌツゲと呼んだり)などが書かれている。だから、名前は便宜的なものであって、便利ではあるけれども、こだわってはいけないと。


これはオカメザクラ

wedding soup ―― 穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』を読んだ。

穂村弘の短歌はすきで、でも、これまでに読んだのは歌論集(『短歌の友人』)だけだった。歌集やエッセイは避けていたところがある。

問題集の巻末のこたえを見ずに、自分でゆっくり考えてみたい気分。夢中になっている小説を読み終えるのが惜しく、読み進むのを躊躇する気持ち。あるいは、ベストアルバムが気に入ったけど、オリジナルアルバムを買ってみたら、それほどでもなかった、というような がっかりを避けたい気持ち。

そして、いつかは読むのだろうとぼんやり思っていて、でも「読まねば」ってところまでは なかなか至らなかったし、「ほんとうに読まなければいけないものであれば、読まなければどうにもならない時が向こうからやってくるのだから、そのとき読めばいい」という、わけのわからない考え。

いままで読まなかった理由は、そんなところ。(ほんとうは、いちばんおおきいのは、読書量全体の減少の影響なのだけど。

にもかかわらず読んだ理由は(略


それで、『手紙魔まみ』から、気に入った短歌をいくつか挙げてみたいと思った。でも、単に「いいな」と思ったものを挙げたのでは、いわゆる秀歌として いろんなところで とりあげられているもの ばかりになってしまう。それではつまらないので「この歌集を読んで初めて知った歌」という縛りをつけて付箋を貼っていった。

そのなかで、これが一等いい。前述の縛りなしでも すきな方なので、この歌に関してネットにあまり情報がないのが意外だ。(ぼくの読み方がおかしいのかな。)

ほんの少し、風のつよめの日を選び、草原スープ婚のはじまり
穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』


「婚」なんて文字が入った歌をすきになるとは思わなんだ。びっくりした。

この歌の次には「新婚旅行へゆきましょう、魂のようなかたちのヘリコプターで」が記されている。こちらはネットでもよく紹介されているけど、ぼくは あまりピンとこない。「魂のようなかたちのヘリコプターで」と言われても、「新婚旅行」という ぼくには金輪際 エンもユカリもなさそうな言葉がイメージの喚起を邪魔してしまう。

対して「草原スープ婚」*1は、これからなにか すてきな あたらしいことが はじまりそう。「婚」の一字があるから、他者とのあたらしい関係のはじまりなのだと思う。それがどんな関係なのか、法律婚による配偶者同士の関係とは異なるものだろうということしか わからない。

風が強めの日の草原が喚起する情景もいいし。なぜ風の強い日を選ぶのか、とか。

これは、かなりすきだ。



手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)

手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)

短歌の友人 (河出文庫)

短歌の友人 (河出文庫)

*1:「スープ婚」は「ウエディング・スープ」から作られた言葉か → Wedding soup - Wikipedia / あと、こんなレシピもあった → http://www.heidi.ne.jp/hp/cook/resipi/hc08003.html(春の草原スープ)

すき

このひとがすきだ。

メンバーの一人の富岡町在住の男性(47)は地震当時、東電の下請け会社の社員として第1原発敷地内の屋外で金属加工の作業に携わっていた。「14日夜の(放射線量の)数値を見てもうダメだと思い、逃げてきた」と話した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110315-00000026-maip-soci


もうダメだと思った。だから、逃げてきた。


なんてすっきりしてるんだろう。*1

このひとのために、「にげる」ではない べつのことばを、だれか みつけてあげてほしい。

via.

今朝のツイート

*1:もちろん、この数行の文章から読みとれることなど ほとんどなくて、だから、ぼくがすきだという「このひと」は、ぼくがつくった架空の存在なのだけど…

3月14日(月曜日)朝 (4日目)

いつもの時間に起きて、シャワーをあびて身支度する。ほんらい今日は休みなのだけど。

まったく、こんな状況(余震、格納容器破損の可能性)で、仕事の心配をしたり会社に行こうとするなど、正気の沙汰ではない。とはいえ、それは今に始まったことではなく、毎日、通勤電車でぎゅうぎゅう詰めにされて、わけのわからない仕事をしているところから、既に十分くるっていたのだろう。お前の仕事がどれほどのものだって言うんだ? お前がほんとうに自由なら、今頃は、クレジットカードを持って、どこか、沖縄にでも旅行に行っているはずだろう。

結局、会社から「計画停電もあるので無理して出社しなくてもいい」という、何が言いたいのかよくわからない連絡があったので、予定どおり休んだ。あれは、来れる人は来てくれという意味なのか? 仕事はボランティアか? 自分と会社のだらしない関係が、とても不愉快だった。

3月13日(日曜日) (3日目)

あまり書くことができない。(震災とは直接関係ないのだけど)ぼくはもう回復できなくなってしまうのではないかと、たまらない気持ちになった。午後には、気持ちが落ち着いた。ぼくの気持ちは「弱く」なってしまったのかもしれない。でもこれでよかったと思う。『桂子と。』を読む。

3月12日(土曜日) (2日目)

1

考え事をしている。ネットのニュースもツイッターのタイムラインも すきになれない。テレビの音声を絞っておいて、音楽を流す。Art of Noise, "Robinson Crusoe" や Brian Eno, "1/1", (Ambient 1: Music For Airports) などをローテーション。

つかれたら、ふとんのなかで本を読む。こんなときは、どんなものを読めばいいのだろう。いま家にあるマンガには、なぜか食指がうごかない。(実家に置いてある『ヨコハマ買い出し紀行』なら読みたいかな…)

歌集を、とも思ったけど つかれそうなので、『桂子と。』(藤林靖晃)の短編いくつかを再読。理想の生活のひとつのかたち。日常生活の空気中に光の粒が浮いているような、しずかなふしぎな明るさがある。

夜、父より指示あり素直にしたがい、一週間分のカロリーと飲料水を確保。

2

深夜、眠れない。

地震があってから、もう何日も経過しているような気がする。会社で地震にあって、歩いて帰って来たのが昨日だってことが飲み込めない。金曜日、地震にあうまでは「今日は夜更かししてマギカみよう」って思ってた。いつもと同じ週末を過ごすのだと。

週明けには、何もなかったかのように会社に行って、いつものように仕事するのだ。そう思う。