なる、たる

実家に帰って、本棚を整理した。たくさん本を捨てた。
書棚にならべていた本って、何だったのだろう。
ぼくはからっぽだなあ、と思った。

オレ…は… 僕は……
空っぽ…だ…
押見修造惡の華

こどものころは、何にでもなれるような気がした。
高校生くらいになると、だんだん選択肢が狭まってきて、それがとてもつらかった。
30歳もすぎれば選択肢なんてないも同然で、でも、そのことについて特別な感情をもったりはしない。すでに「なる」ことをあきらめているからだ。

ぼくは〔…〕なにものかになってやろう、と思っている者だ。しかしぼくがなにになれると言うのか。
中上健次「十九歳の地図」

今年36歳になる。
何者でもない。これから何者にもなりようがない。
それでも、なのか、だからこそ、なのか
これからどんなふうになっていくのかなと、たのしみな気持ちが、確かにある。

十三歳の少年なんて、ほんとうはもう何でもわかっているんだよ。〔…〕でも、ただ一つ、どうしてもわからないことがあるんだ。それはね、これから予想もつかない色々なことが自分に起こるってことさ。ほんとうに、いろんなことが起こるよ。
永井均「翔太と猫のインサイトの夏休み」

ただなんとなく、いつのまにか、何かになっているのだと思う。どこにでもいる、あまねくあるような、つまらない何者かになっているのだと思う。
そしてそれがたのしみだ。

いや、
ぼくが何かに「なる」というのではなくて。
ぼくとぼくのまわりの人やモノとの関係がかわっていくのかな。その移り変わりがたのしみなのかな。


ピタゴラスイッチの「ぼくのおとうさん」という歌がすきだ。

状況に応じて「ぼくのおとうさん」はなんと呼ばれるのか。お店に入ると「お客さん」になり、病院に行くと「患者さん」になり、歩いていると「通行人」になるなど、同じ人間でも場に応じて色々な役割をもつことがわかる歌。

ピタゴラスイッチ - Wikipedia

「ぼくのおとうさん」のほんとうの姿はどこにあるのだろう。誰がほんとうの「ぼくのおとうさん」を知っているのだろう。「ぼくのおかあさん」?


ぼくはこれから誰にどんなふうに呼ばれるのだろう。


「私」というものはどこにあるのだろう。

「私」と「今」とは同じものの別の名前
永井均「私・今・そして神」


「私」だけをとりだすことはできないのだと思う。
からっぽだから。
ないものだから。*1


だから、

自分自身に対してより、世界に対してずっと大きな興味があります。
ソンタグ「良心の領界」

かくありたい。