選ぶこと、選ばれること

「踏み絵」を踏むか踏まざるかの選択を迫られる状況に 準備不足の意図しないタイミングで陥るのは嫌なものだし、まして他人にそれを強いるのは酷なことだ。

でもだからといって、何か配慮をして 踏み絵のテストを避けてあげることが よいことだとも思わない。

やはり、どちらかを選択しなくてはいけない場面はあるし。

だいたい どちらの選択が ほんとうに よいかなんて わからないのだから、その時に自分がよいと思う方を積極的に意志して選べばいい。

とは言え、そういう時の選択によって人間は選別されてしまうのだから、やはり酷なことではある。

だけど、みんな30歳すぎたオトナなんだし、なんとなくの不作為を選んで その結果から逃げるのではなくて、(どちらでもいいから)積極的に選択をして、不利益も含めてその結果を引き受けてくれよ、と思う。


先週、 会社ですこしやっかいなことが起こって、自分も周りの人も、それぞれに態度を選択しなければならなかった。(頬被りする人がほとんどだったけど

事の帰趨は まだわからない。ぼく(ら)は それなりの選択をしたつもりだけど、何も かわらないのかもしれない。結果、損をして「バカだなあ」と笑われるだけなのかもしれない。いずれにせよ、もうすぐケリがつく。

もちろん良い結果になればそれに越したことはないけれど、結果など、どちらでも構わないとも思う。

どのような結果になろうと そんなこととは関係なく、その時その人がどんな選択をしたのかは、どこかに残る。みんなが忘れてしまったように見えても、誰かが(あるいはその人自身が)覚えている。そして、それぞれの選択に基づいて 人はふるいにかけられる。

ぼくのふるいにかけられて残った人たちを選んで、ぼくは一緒にやっていきたい。(だからぼくは自分がただしいと思う選択をしたい。ぼくはずっと自分と一緒にやっていくのだから。

結果よりも、そのことの方がぼくにとっては大切なのかもしれない。


―― そんなことを思った。