萌え、恋、オカルト、愛

「萌え」って、「恋」と何がちがうのだろうか。

「萌え」を「恋」と言わないのは、その対象ゆえにそれが異端とされ、オカルト*1だから ではないか。ぼくは、ぼくが中学生の頃に、「おたく」という言葉が、なぜか最近あまり聞かなくなった「二次元コンプレックス(二次コン)」という言葉と一緒に登場していたように記憶している。

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ぼくは3次元でも萌えは成立している、というか、率直に言うと、ひとが「愛」だとカンチガイしているものの多くは実際には萌えでしかないと思います。そして「それでいい」と思うわけです。

http://twitter.com/hazuma/status/8154970987

きみがもし誰かをほんとうに愛しているなら、その人の持つどんな性質の変化にもかかわらず、その人を愛し続けることになるはずなんだ。〔…〕恋はその人の持っている何らかの性質に向けられるものだけど、愛はそうじゃない。愛はね、その人そのものに向けられるものなんだよ。〔…〕恋が愛に移行するためにはね…、歴史が必要なんだ。でも、問題はそんなことじゃなくて、そもそもそういう純粋な愛が、論理的に考えてみて、可能なものなのかってことなんだ。”
永井均「翔太と猫のインサイトの夏休み」

*1:「オカルトとは、〔…〕隠さなければ、すなわちオカルティックでなければ、生き残ることなどできようはずもなかった教えの法統なのである。」(小杉英了「シュタイナー入門」)