空から女の子


天空の城ラピュタ』一番の名文句は、「空から女の子が!」であろう。机の引き出しからロボットが現れたら、連絡すべきは警察か自衛隊か、かなり焦る。しかし、空から女の子である。「君が空から降りてきたとき、ドキドキしたんだ。きっと、素敵なことがはじまったんだ、って」。そりゃあ、ドキドキもするだろう。さぞ、やわらかくてあったかいのだろうなー。
そういう話がしたいのではない。
何かを得るためにはその対価を支払う必要があるのだと、世間ではなぜこんなにも強調されるのだろう。婚姻して配偶者を得た、就職して正社員のポジションを得た、仕事で成功して大金を得た。そういったことに誰がどれだけの対価を支払ったかなど、わかるはずもない。「努力したから」、「能力があるから」だろうか。すべては後付けの結果論ではないのか。都合の良い事実を拾い上げ、つなぎ合わせて物語を作っているだけではないのか。
シータはパズーの職場を選んで墜落したわけではないし、パズーはシータを助けようとして残業していたわけではない。パズーの父がラピュタの発見者だからか。パズーが飛行機を自作していたからか。そんなことは関係ないはずだ。
誰の元にも、空から女の子が降りてくる可能性があって、なにか素敵なことが はじまる可能性がある。
確かに、パズーが定時退社していたら親方がシータと一緒にラピュタに行ったのかといえば、それはないのであって、そこが信仰の困難ではある。
しかし、我々が共に終幕まで駆け抜けて「バルス!」と唱和できるのは、その可能性、その予感を共有しているからこそなのである。
我々が、その予感を共有しているということ。そのことがまず、重要である。