隘路より(ラブプラス雑感、そして陵辱系エロゲー)

ラブプラスの3人の友達パートをひとまず終えたので、書いておく。
小早川、次いで高嶺の友達パートを終えたところで、すこし気になったことがあった。高嶺と小早川については、

  1. ヒロインは人間関係に問題を抱えている。
  2. プレイヤーキャラクター(PC)がヒロインの問題を解決する。
  3. その結果、ヒロインはPCの彼女になる。

という因果関係が明示されている。
なんてことだ。ぼくはただ癒されたいだけなのに、そのためには「問題を解決する」という資格が必要なのだ。そんなことを気にするのは「バカじゃん」なのだが、腑に落ちない。

そのわだかまりを払拭できないまま、ラブプラスwiki@2chで「癒し担当」とされる姉ヶ崎の友達パートをはじめたところ、これはよい。姉ヶ崎がPCの彼女になる経緯については、高嶺・小早川と比してさほど明確な物語はない。説得力のある理由付けも示されない。これでよいのだと思う。シータはパズーの職場を選んで墜落したわけではないし、パズーはシータを拾おうとして残業していたわけではないのだ。

「何の取り柄もない自分」の「失敗作の人生」をどう肯定していくか。結局ぼくは、この隘路から離脱する方法をずっと探していたのだと思う(今も)。そこで高嶺・小早川が示すのは「やればできる。がんばれ。」と言った教科書的な解か、「そこでラブプラス」という身も蓋もない解であり、対して「癒し担当」の姉ヶ崎は恩寵の可能性を示しているように思われて、しっくり来た。

ぼくはかつて陵辱系のエロゲーを渉猟していた。定職に就かず、将来の不安と、(周囲の人々、特に両親の)自分へのあらゆる期待を裏切ったことへの申し訳なさで、精神的に参っていた頃のことだ。なぜ陵辱系かということについては以前すこし書いた(セクシュアリティ - みるいし)。ここでは別のはなしをする。

忍耐力がなくなったため、いまはもうエロゲーはやらなくなってしまったが、しかしそれでもまだエロゲーについて読み書きする意味があると ぼくは思っている。それは、次の文章で言われているように、エロゲーには他にない表現がある(あった)からだ。(いま、そういう表現はどこに行ったら見られるのだろう。)

ギャルゲーは選択肢というシステムによってプレイヤーに自己判断を要求し〔…〕単なる〈受け手〉以上の積極性や当事者性を要求してくる。プレイヤーがそれに参加し、そこで快楽や娯楽を得ている以上、それは共犯性を持つ。そこが、ギャルゲーの放つ異様な魅力であると同時に危うさでもある。
ササキバラ・ゴウ傷つける性』(新現実 Vol.2)

たとえば、エルフの『臭作』は、「女性から好かれる」ことの徹底した断念を前提しながらこの隘路から脱出しようとして格闘していた。その一つのこたえとして用意されたのが、攻略対象から外されたヒロイン・高部絵里だったのだろう。他にも、ここで内容には触れないが、エルフの『遺作』『臭作』『鬼作』の三部作、そしてディーオーの『虜』はプレイした価値があったと思う。

振り返ると、あの頃なぜそれほど陵辱系のエロゲーに耽溺していたのかと すこし不思議に思う。自虐的にすぎたのかもしれない。しかし、他人から見れば人生の無駄遣いなのだろうが、この平井美恵子のセリフを思い出して「ああ、そうだ」と気付くことが今も時々あるのだから、これでよかったのだ。

「あなたは、自分の妄想に支配されている馬鹿な人だわ」
ディーオー『虜』、原画・シナリオ:広崎悠意

小早川に「バカじゃん」と なじられながら、そんなことを思った。*1

*1:「バカ」という言葉をこんなふうにしてしまったのは男の子を散々「バカ」と罵倒してきた中学生の女の子たちであると思う。