精神を引き揚げ、倒れないよう吊り上げる。萌え、恋、ラブプラス。

quote

女の人とセックスしたこともないし、デートしたこともないし、まともにしゃべることすらできないんですが、おかしいですか。というか、連絡先を知っている友人・知人というものが一人もいないんですが、おかしいですか。ぼくをばかにしているやつらをいつか見返してやろうと思って生きてきたけど、呪いをかける元気もないや。でもまだ死ねないや。ハハ。

ちかごろ

精神が不安定になっている。精神の基盤が危ういからだ。ぼくの人生はもう終わりだと悲観して、両親に申し訳なく、泣きたくなったり。まだまだ自分はだいじょうぶだ、心配ない、と落ち着いたり。先日は「働いたら負けかなと思ってる」の人の後日談を読んで*1、ぼろぼろずーずー涙がとまらなくなってしまった。

沈み込みそうになる精神を引き揚げ、倒れないように吊り上げる ちから が必要だ。自己を駆動させるもの。そのような ちから をもった、安上がりでかつ安全な なにか。そういうものが必要な時期なのだ。

「ちいさな目標」(「水道橋で天ぷらそばをたべよう」といった*2)もそういった ちから になる。しかし、よわい。何かよいものはないか。てっとり早い手段でぼくが思いつくのは「萌え」だ。これならうまくすれば一年間くらいは効果が持続する。

ぼくは高校に入ってから恋愛の対象を持たなくなった。誰か人を好きになるという経験は中学生のときが最後だ。しかし、定職に就かず精神的に不安定だった時期に「下級生」というゲームのキャラク*3に対して萌えとも言われる疑似恋愛感情をもっていたことがあった。ほめられたことじゃないけど、そのことで ぼくはたいへん救われたのだった。

「自分について考えてはいけない」というソンタグの教えは まったく ただしい。自分について くよくよぐずぐずと考えているくらいなら、天ぷらそばのことを考えたり、美少女キャラとの会話でも妄想している方がずっと良い結果を生む。

…ということをラブプラスのスレッドを見て思いだした。

萌えとは

萌えは中学生の恋だと思う。これ以上は書くことができない。

「萌える」という言葉の文法的な理解について、『アシュタサポテ』の2001年3月17日の記述に付け加えるべきことは、いまもって何一つない。

「萌える」とはまこと慎み深い自動詞なのであって、例えば「愛する」といった他動詞が直接目的語をとるようには対象を訴求せず、必ずその間に「に」という助詞(印欧語なら前置詞)を置くわけだが、直接的に関係しえないことを殆ど条件とするこの恋情は紛れもなくロマン主義的なものだ。従って次元の壁が「萌え」の間接性や自閉性をもたらしたと考えるのは、一見もっともらしいが歴史的な転倒を見逃していると言わねばなるまい。

「萌える」とは、どこまでも自発的な上昇運動である。「に」という助詞が指示するのは、直接的な関係をもつための対象ではまるでなく、この上昇運動のための、ある種の到達点のようなものだ。「萌える」という感情は、「次元の壁」よりもむしろ、「対象」が手に入らないという意識を前提としているのである。この単語の文法的な理解は、これで必要十分だろう。

http://d.hatena.ne.jp/nanari/20061105

で、ラブプラスを買った。

発売時から気にはなっていたんだけど、品薄だったし、自分はもうこの手のゲームは卒業したと思っていた。しかし、

これでやられちゃいました。感謝します。
半年ぶりくらいにDSを起動します。どれくらい続けられるのか あまり自信がないのですが。

*1:働いたら負け、か、な、 - みるいし

*2:ちいさくて具体的な目標 - みるいし

*3:思い出すといまでも胸がツーンとなる。ほんとにどうでもいいことだけど、自分のために書いておくと、新藤麗子と加納涼子だった。特に新藤。いまで言うツンデレですか。