生活のモード

人には、一時的な気分や感情(ムードmood)とは別に、数年から十数年といった長期にわたって続くひとつの気分のようなものがあるように思います。ぼくはそれを「モード」(mode)と名付けて、ときどきモードについてぼんやりと考えます。

ぼくは生活費をかせぐために会社勤めをしています。単なる末端の事務職員です。自己実現などとは縁遠い「つまらない」仕事ですが、ラクではあります。平日の午前9時から午後5時まで拘束される会社勤めを中心にして生活のパターンはできあがっています。会社がつぶれるか定年退職するまでここで働くつもりです。失業の不安がないわけではありませんが、この生活は当分のあいだ続くと予想しています。そんな就職をしていわゆる社会人になってから4年が過ぎました。

このような生活のモードは自然と物憂い色彩を帯びてくるようです。

たとえば、おもいきり笑った後で、ふと溜息をつきたくなる。本来、笑いはうれしいとかおかしいとかのムードに支配されているものですが、そういったムードの支配はすぐに物憂いモードに侵されてしまう。あるいは、笑いながらも、意識はその場のムードではなくて、もうひとつ深いところにある物憂いモードと向き合っていたりすることがある。

井上陽水の「背中まで45分」の歌詞に、「わらった後は気だるい気分」とか「会話のために名前を聞いて、ありふれた名ですぐに忘れた」ってありますが、これはそんなムードとモードの乖離、上の空の状態を歌っているみたいだ、ってぼくは思います。

そしてこの歌と同じように、物憂いモードには薄甘い味がある。きらいじゃないです。