マギカ8話感想、のような…。喧嘩両成敗と鹿目まどかとコドモとニート

なぜか「喧嘩両成敗」のこと

「喧嘩両成敗」という考え方がある。

けんかや争いをした者を、理非を問わないで双方とも処罰すること。戦国時代の分国法にみられ、江戸時代にも慣習法として残っていた。
喧嘩両成敗(大辞泉

辞書に「…残っていた」とあるように、ふつう「喧嘩両成敗」は劣った/遅れた考え方だと捉えられている。理非を問わずに双方とも処罰していては、正しいことは行われなくなる。そう思う。

でも、「喧嘩両成敗」とは、「『やられたらやりかえす』というルールの否定」なのだそうだ*1。そう言われると、かんたんに「劣った/遅れた考え方だ」とは言えないという気がしてくる。

〔ここから先は、話をおおきく飛躍させる…〕

たとえば、刑法は「人を殺した者を(国が)殺しても構わない」と言う。もちろん、仇討ちは禁止されて、国が運営する裁判制度があるのだから、単純な「やられたらやりかえす」ではない。洗練された方法だし、その仕組み自体が おかしいとは思わない。でもやはりそれは、言ってしまえば「やられたらやりかえす」の肯定だ。

ならば、それを否定したところには いったい どのような世界がひらかれるのだろうか…。

くだらない妄想かもしれないけれども、「人が自分の行為の責任を取ることができなくなる」という地点は確かにあって、その場所では罪に相当する罰なんてものはなく、そうであれば、刑罰や責任なんて何の意味も持たないと思うから、どうしてもそんなことを考えてしまう。

「責任がとれない」ことをはっきり共有できた地平から開ける、あるなにかの世界

http://www.geocities.jp/saishjuku/asumo13.html

鹿目まどかと、コドモと、ニートのこと

魔法少女まどか☆マギカ」の第1話で、暁美ほむらに追われるキュウべえがケガをしているのを見た鹿目まどかは理非を問わずにキュウべえを助け、暁美ほむらを非難する。

ほむらちゃんがやったの? ダメだよこんな事!!
コミックス『魔法少女まどか☆マギカ』第1巻、原作:Magica Quartet、 作画:ハノカゲ

この時、鹿目まどかは まだ魔女の事も魔法少女の事もキュウべえの正体も知らない。だからこそ言える台詞かもしれない。

しかし、魔法少女契約のからくりが明かされた後「君もぼくの事を恨んでいるのかな?」と問うキュウべえに対して、鹿目まどかは「あなたを恨んだら、さやかちゃんを元に戻してくれる?」*2と問い返す。暁美ほむらに銃器で穴だらけにされたキュウべえをみて「ひどいよ! 何も殺さなくても!」とも。(『魔法少女まどか☆マギカ』第8話)

こういうところに鹿目まどか魔法少女としての優れた素質をみる。


美樹さやか佐倉杏子など他の魔法少女たちは皆それぞれにオトナらしい考え方をする。鹿目まどかは彼女らと比べると確かにコドモだ。

けれども、「コドモの考えが劣っていて、オトナの考えが優れている」と簡単に言えるわけではない。ちょうど「喧嘩両成敗は劣った考え方だ」と一蹴することができないのと おなじように。

先に引用した「恨んでも意味がない」主旨の発言などみると、第3話以降 立ちすくんで動けなくなっているように見える鹿目まどかのなかで、何かが醸成されているのではないか、と期待してしまう。ニートの発した「働いたら負けかなと思ってる」の衝撃が あたらしい世界を見せてくれたように、まどかが オトナの理屈とは べつのもので あたらしい世界をひらくのではないか、と。