わかるとか わからないとか、そんなオカルト

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残り物のおかずで夕食にしよう。あれと、あれと、あれをたべよう。」と、あらかじめ考えていたのだけど、梅酒をのんでいたら そんな計画も わすれてしまい、冷蔵庫をもういちど確認する。チーズの賞味期限がきれているのをみつける。レンジのチンをまつ。

そういえば、ジョバンニみたいな「なんだか どんなことも よくわからないという きもち」は、最近 なくなったかもしれない。もちろん、わかるように なったわけではない。ただ、わからないという気持ちを かんじることが すくなくなった。

それがよいことだとは全然おもわない。まあ、わるいかんじもしないけど。

やはり、わかるひとだけがわかっていればいい、というものはある。それを文字や話し言葉にしてあらわすことはできないし、できるとしても、そうすべきでないのだろう。おしえなくとも見つける人は見つけるのだから、それで十分だ。

昨夜はベッドのなかで「言葉が滅びるって、どういうことなんだろうか」と、ぼんやりしながら眠りについた。ぼくは「言葉によるゲーム」に淫することのないようにしたい。

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「ことば、野にほろびてしづかなる秋を藁うつくしく陽に乾きたり」(高野公彦)
「オカルトとは、〔…〕隠さなければ、すなわちオカルティックでなければ、生き残ることなどできようはずもなかった教えの法統なのである。」(小杉英了「シュタイナー入門」)
「みえるとか みえないとか、そんなオカルトありえません。私からは、はっきり みえます。」