物語の中を生きる

はてブにあがっていた「人間にどうしても必要なのは『物語』」*1という言葉をみて、すこしまえに考えていたことを思いだしました。(当該記事の内容とはほとんど関係ないです。)

一時期のぼくは、「希望を持って暮らすためには、どうすればいいのだろう?」というような漠然としたことを、くよくよと考えていました。希望というのは、「将来に対する期待」や「明るい見通し」のことですが、そういう期待や見通しを持つためには、前提としてまず何が必要なのだろうか、と。

そのときにぼくがたどり着いたとりあえずの結論です。

「希望をもって生きる」とは、まず第一に「物語の中を生きる」ということだ。だから、希望をもつためには、まず、「過去と現在と未来をひと続きのものとして見る」ことが必要であり、そしてそこから「因果の流れを読みとる」必要がある。それが「物語の中を生きる」ことであり、また「希望をもって生きる」ことの前提なんじゃないか。

国語辞典を紐解いてつなげたような結論ですが、そのときのぼくは、この結論を得て、なぜかほっとしたのでした。(いまもそうです。)

このように「見る」あるいは「読む」ためには、ある種の「ちから」が必要で、ぼくはその「ちから」を失うことがこわくて、「ちから」を失うことのないように、日々の暮らしを整えたいと思うのです。*2

しかし、ただ「物語の中を生きる」のなら、意外と簡単です。物語は売っているからです。気に入ったものを買えばよいのです。

でも、最近の物語は、すぐ壊れちゃうんですよね。

人間は夢や希望なしには生きていくことはできません。未来が明るいと信じられるからこそ、現在を夢や希望をもって生きることができるのです。私たちの生活に未来の観点をうちたててはじめて、現在が意味があり、過去も過去としての意味をもつことができるはずです。

しかし、ただ未来とか希望とか夢とかいっても、客観的なうらづけがあってはじめて、私たちの生活に現実的な展望がうまれるのです。そのための保障は、世界には法則がある、ということである、と私は思います。
仲本章夫「現代の流行思想」