たのしいことを探しながら、終わりまで歩きたい

へんに求道的にならず、たのしいことを見つけては寄り道したりしながら歩きたい。そうやって進んでいけば、ちょうどよい具合に人生の終わりがくるんじゃないかなあ、と思う。

現実を受け容れ、日常のささやかな享楽へ意識を向けてゆくべきですよ、と。とはいえ諦めずに夢を追う人もそれはそれでOKだ。ようはどっちでもいいのだ。一見相反しているようだが、頑張るか頑張らないか、どちらかが真でどちらかが偽であるという発想自体が窮屈だ。というのも緊張と弛緩はおそらく、ひとりの人生のなかに両方存在するものなのだから。

http://d.hatena.ne.jp/mezu/20090321#p1


「いつ終わるのかわからない不安」にとらわれているとき、この言葉を思い出す。

桜が咲くように ゆったりといきましょう 一歩進んで二歩下がるかのようなテンションで あるいはそんなテンポで 生きていけば ちょうどよい具合で 人生は終わるんじゃないかな と思います
Seasidecity「セカイの歩き方」第12回

もちろん、これはなんの証明にもなってないし、「ちょうどよい具合で終わる」保障なんて、ほんとうはどこにもないんだと思う。(というか、ない。どこにもない。)

けど、ぼくが欲しいのは証明とか確信とか保障といったものとは少しちがう。欲しいのは、「ちょうどよい具合で終わる」という「信頼」のようなもの、そのなかで「安心」*1して抱かれて、眠れるようなものだ。

「安心」のために必要な条件/環境は人それぞれだろう。複雑な「仕掛け」やたくさんのお金を必要とする人もいる。現在のぼくは、「だいじょうぶだよ」という言葉の力だけで結構安心できる。でも、この先は、どうなるかわからない。そこをできるだけ簡単に済ませられる人間になるのが、うまく生きていくコツなんだと思う。

そのためには、どうしたらよいのかな。

ただ未来とか希望とか夢とかいっても、客観的な裏付けがあって はじめて、私たちの生活に現実的な展望がうまれるのです。そのための保障は、「世界には法則がある」ということである、と私は思います。
仲本章夫「現代の流行思想」

ぼくは、ときどき、つかれてしまって、きちんと考えられなくなって、「不安やわけのわからない混乱の中で生活をして年をとっている」*2ような気がしてくる。でも、「世界には法則がある」ということが保障されているのなら、世界について、しっかり見て、しっかり考えることは、価値のあることにちがいないと思う。

追記

おなじようなことを以前にも書いている。
みるちから、みるいし(「世界には法則がある」) - みるいし
ぼくはここ数年、ずっと同じことを考えているみたいだ。これから先もそうなのかな。それとも全然別のことを考えたりするようになるんだろうか。

*1:松本大洋鉄コン筋クリート

*2:中上健次「一番はじめの出来事」