セクシュアリティ
ぼくが子どもの頃に接したメディア*1の中では、男性が女性の裸を見ることや、女性の乳房や尻に触れることは、女性に対する暴力としてあった。そこで女性は、性的な関わりをもつことを徹底して拒否していた。そして、強いられていた。
おそらく、だからなのだろう、ぼくの性的妄想は暴力と不可分なものが多い。性的な空想をするようになったのは小学生の頃からだと思うが、その頃からずっとそうだった。
その後の成長過程で、この性と暴力の同居関係をうまく解消できていたら、ぼくは今よりいくぶん幸せだったろうと思う。
でも、ぼくには、たぶんもう無理だろう。
そのことに悩んだ時期もあった。
しかし、今はそれほど気にしていない。これを病にたとえるなら、根治することに執着するのではなく、適当に折り合いをつけて暮らしてゆくことを選んだということだ。
セクシュアリティについておもうとき、ぼくはこのセリフを想起する。
「あなたは、自分の妄想に支配されている馬鹿な人だわ」
『虜』(ディーオー)の平井美恵子の台詞
「ああ、そうだ。」と思った。
ぼくにとって、セクシュアリティとは妄想の産物にすぎない。
だから、思い悩むことはない。
食事をしていたら、テレビからこんなニュースが流れてきて、
このゲームは、未成年と見られる女子2人とその母親を電車内で痴漢した後にレイプし妊娠や中絶をさせるまでを、コンピューターグラフィックスを使った画像で疑似体験するという内容。
日本製「性暴力ゲーム」欧米で販売中止、人権団体が抗議活動
ぼくはテレビに映ったそのゲームのパッケージに見覚えがあって、それで、むかし考えていたことを思い出して、これを書いたんだ。