目に見えるしあわせへのあこがれ(崩れかけの反幸福論)

三十三歳で独身で、結婚するあてもない。というか、これまでに彼女がいたことがない。セックスをしたことも、デートをしたこともない。女の人と まともに話をすることができない。いや、正直に言うと、男の人とだって上手に話をすることができない。友達はいない。「連絡先を知っている」レベルの知人も、仕事上の必要から携帯電話の番号を知らされている会社の人しかいない。


《こんな人間が幸せだなんてことが、ありえるんだろうか。》


そのような問いは、もはや ぼくにとって無価値となりました。ぼくが しあわせであるか、しあわせでないか、そんなことは どうでも いいことです。

「しぬか、しなないか」

かんがえる価値があるのは そのことです。そして、しぬことを えらばないのなら、いきつづける ほか ないのです。ぼくは まだ しを えらぶことが できない。ただ それだけの理由で いきていくのです。しぬことを えらばないのなら、しあわせでも ふしあわせでも、ともかく いきつづける ほか ないのです。しあわせも ふしあわせも ないです。のこるのは「いかに いきるか」という問題だけだ。


ただ、父と母には認めてもらいたいです。ぼくの人生が幸福なものであると。そのために、ぼくは「目に見える しあわせ」が ほしい。そうしたら、ぼくは らくに なれます。

「32歳のクリスマス」から

誰だって幸せになりたいし、私だって、べつに幸せじゃないわけじゃない。ただ問題は、それが下の世代から見て「幸せそうには見えない」ってことなんだろう。//そのときに初めて「両親は孫の顔が見れないことを淋しいと思っているのではないか」という疑心暗鬼のプレッシャーからは解放された。あとは自分の中の問題だ。//世間から幸せそうと思われるのがムリなら、自分だけでも幸せと思える方向に向かって生きていくしかないではないか。

2008-12-25