なぜキョンは語るのか――谷川流「涼宮ハルヒの憂鬱」

自分ではどうにもならないおおきな力によって混乱に引き込まれてしまいたい

元気な女の子が引き起こす事件に否応なく巻き込まれていく、一見すると不幸だけれども実は幸せなぼく――という主人公のお話は探せばたくさんあると思うのですが、そんなふうに、「自分ではどうにもならないおおきな力によって今ある秩序が壊されて混乱に引き込まれ、結果、あわよくば幸福になってしまいたい」という非常に無責任で調子の良い願望は、いまもぼくのなかにあります。

日曜日の夜などはその手の妄想が育ちやすく、「不景気か何かで会社が潰れたら、案外、かえって自分は幸せになれるんじゃないか」といったような、ぜんぜん説得力のない夢想をしながら、床につくわけです。

ただ、「元気な女の子」が出てくるような妄想は実現可能性ゼロなので、中高生の頃はともかく、さすがにもうぼくの妄想力では無理です。マンガ週刊誌で新連載のマンガがこのパターンだとわかると、自分の愚かな妄想を見せられているような気がして、とたんに興醒めしてしまいます。

谷川流の「涼宮ハルヒの憂鬱」もこの「元気な女の子」パターンのお話ではあるのですが、語り手(キョン)の立ち位置がこの小説をおもしろいものにしているとぼくは思っています。

以下の2点についてあらためて考えて、書いてみることで、この作品にぼくが興味をひかれる理由をうまく伝わるものにしたい、というのが目論見です。

キョンの現在

まず、語り手のキョンがどのような場所から語っているのかをみてみます。高校の入学式の後のホームルームでキョンに続いてハルヒが自己紹介する有名な場面から引用します。

やるべきことをやったという開放感に包まれながら俺は着席した。替わりに後ろの奴が立ち上がり――ああ、俺は生涯このことを忘れないだろうな――後々語り草となる言葉をのたまった。
「東中学出身、涼宮ハルヒ
ここまでは普通だった。真後ろの席を身体をよじって見るのもおっくうなので俺は前を向いたまま、その涼やかな声*1を聞いた。
「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」
さすがに振り向いたね。
谷川流涼宮ハルヒの憂鬱」p.11

「ただの人間には興味ありません」というハルヒの台詞は、この作品を紹介するときによく引用されます。そして語り手はこの台詞を「後々語り草となる言葉」だと言っています。つまり、まさにわたしたちがこの作品について語るときのように、このハルヒの自己紹介はキョンたちの間で「語り草」になっているというのです。

では、キョンは現在どのような場所いるのでしょうか。「あのときのハルヒの自己紹介」を思い出しながら談笑するキョンを想像してください。

おそらく、キョンは物語(ものがたるべき出来事)がすべて終わったところから読者に対してものがたっていて、既にハルヒの引き起こす混乱の中にはいないのだと思います。キョンは既に物語の渦中にはなく、退屈で平凡な日常の中にいる、というのがぼくの読み方です。*2

キョンはなぜ語るか――ハルヒ的憂鬱はキョンの憂鬱

では、その日常の中にいるキョンは、なぜ読者に対して、かつてあった非日常の物語を語るのでしょうか。

普通、語り手は、自分が体験した語るべき出来事を他者に伝えるために語るものです。

しかしこれは表向きの理由にすぎません。普段わたしたちが友人・知人に「語る」ときの心情*3を思い起こしてみればわかるとおり、往々にして語り手は聞き手のためにではなく「語りたい」という利己的な欲求を満たすために、自分のために語るものです。では、キョンの場合、「語りたい」という語り手本位の欲求はどこから出てくるのでしょうか。

ここで「ハルヒの憂鬱」について考えてみます。タイトルにもなっている「ハルヒの憂鬱」とは

それまであたしは自分がどこか特別な人間のように思ってた。〔…〕でも、そうじゃないんだって、その時気付いた。〔…〕そう気付いたとき、あたしは急にあたしの周りの世界が色あせたみたいに感じた。〔…〕途端に何もかもがつまらなくなった。
谷川流涼宮ハルヒの憂鬱」p.226

というものです。

ぼくは、自分は「何者でもない」という憂鬱、「何者にもなれなかった」という憂鬱にとらわれることがあります。こういった「ハルヒ的憂鬱」から完全に無縁な人は、そういないのではないかと想像します。これは「特別な人間」ではない「ただの人間」が、平凡な日常の中でときに感じる、極一般的な感情でしょう。

それでも、多くの人はその憂鬱をうまくやりすごす術をいつのまにか身につけていて、非日常への「ハルヒ的渇望」からハルヒのような常軌を逸した破滅的行動をとることなく、日々平凡な生活をおくっているわけです。

このような「ただの人間」の立ち位置とは、ものがたるべき出来事がすべて過去のこととなってしまっているキョンと同じものです。キョンはもはや物語の渦中にはなく、日常の中にいます。だとすればキョンもまた「ハルヒ的憂鬱」に時にさいなまれ、けれども「ハルヒ的憂鬱」の処し方というものを心得ていて、うまく「ハルヒ的渇望」をコントロールしているのでしょう。

とすれば、キョンが語る理由について、次のような読みも可能だと思います。

キョンにとって自分の「ハルヒ的憂鬱」や「ハルヒ的渇望」のコントロール方法がまさに「語り」なのであり、キョンは過去を振り返り、読者に対して自分の過去の物語*4を語ることで自分の「ハルヒ的憂鬱」や「ハルヒ的渇望」をコントロールしている。

そういうわけで

ハルヒ的憂鬱」や「ハルヒ的渇望」に時にさいなまれるぼくにとって、この語り手の立ち位置こそが「涼宮ハルヒの憂鬱」を評価するポイントです。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

*1:キョン」は「信頼できない語り手」ですので、「涼宮」は本名ではなく、この「涼やかな声」という「ハルヒ」の第一印象から名づけた仮名なのでしょう。

*2:というか、ぼくはそれがおもしろい読み方だと思うので、物語の成り行きや結末(「ハルヒの現在」)にはあまり興味がなく、小説を2、3冊しか読んでいません。ぼくの読み方についての評価は、当然ですが、この文章の読み手にお任せします。

*3:このように文章を書き散らしているときの心情も

*4:そこには当然、脚色が入っています。語りたくない事実は伏せられています。